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ニュースレターNo.150

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ISM特別講義
イサクの燔祭から見る「権利の放棄」
YWAM日本代表・牧師・CFNJ聖書学院修了 吉田 和彦師

「 御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」 アブラハムが目を上げて見ると、見よ、角をやぶにひっかけている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげた。 そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた。今日でも、「主の山の上には備えがある」と言い伝えられている。創世記22章12節~14節

■ 権利を放棄するということ

すべての人に権利は与えられています。クリスチャンでもクリスチャンじゃなくても、何かしらの権利を持っています。教育を受ける権利があり、国からの恩恵を受ける権利があり、働けば労働に応じてその報酬を受け取る権利があります。今日は、その権利を放棄することを学んでいきたいと思います。  悔い改める事や、放棄するとかいう言葉は、あまり聞きたくない言葉だと思います。私が以前、YWAMで「真の悔い改め」という講義をした時、学生たちは、これから何を言わされるのだろうかと落ち着かなくなったり、恐れたりしました。しかし、そのようになるのは、悔い改めということを、私達が正しく理解していない時に起こる恐れなのです。悔い改めは、ものすごい大きな恵みです。これを恐れる理由は、私達の思いの中にサタンが、嘘のインフォメーションを持ってくるからです。恥をかくとか、過去が知られるとか、責められるとか、色々な嘘が入ってきます。そして、私たちは神様の大きな恵みを、出来れば避けて通ろうと考えてしまいます。このように私たちは神様の大きな恵みを受けそこなってしまうことがあるのです。これはとてももったいないです。権利を放棄する事も、これと同じことが言えます。権利の放棄という、その言葉だけを言うならば、何か、まな板の上の鯉みたいに、「もう!どうにでもしてください!」みたいなイメージを持ってしまいがちなんですが、実はそれは違います。聖書の中で権利の放棄をした人といえば誰を思い浮かべますか?イエス様は、究極的に権利の放棄をされた方です。神であられるお方なのに、そのあり方をお捨てになられたお方、その命をすべて私達の為に捨ててくださったお方です。パウロも権利を放棄しました。パウロはより多くの人を獲得するために自分自身を捧げました。パウロは宣教する相手に合わせて、自分のスタイルを変化させることができる人でした。その為に多くの権利を放棄しました。だいたい聖書に出てくるほとんどの人は、自分の権利を放棄した人達です。神の御心を行った人は全てそうであると思います。

■ アブラハムへの試練

今回はアブラハムを見て行きたいと思います。 創世記22章1節〜14節の箇所で、アブラハムに神様が、愛するイサクを、わたし(神)の為に、いけにえとして捧げなさいと語られました。そして、アブラハムはその言葉通りにしようとします。この時のアブラハムの決断は、とても大きな権利の放棄でした。アブラハムは100歳の時にイサクを授かりました。老齢になり、もはや子どもが生まれるはずがない状況にあって、神様がその1年前にアブラハムの所に来て、「妻のサラは身ごもる。」と言い、神様ご自身がわざわざお膳立てしてくださいました。しかしアブラハムには、すでにハガルとの間にイシュマエルという子どもがいました。アブラハムの中では、イシュマエルが自分の子孫として、受け継いでいくものとして、頭の中で固まっていたと思います。しかし、その中にあえて神様がご介入されてイサクを与えて下さったんです。ですからこのような状況の中でイサクを捧げなさいと言ってきたわけです。神様からの命令があり、アブラハムは翌朝早く、行動を開始しました。この命令と行動の間には、特別、何も記されてはいませんが、アブラハムの心情を察すると、そこには大変な苦悩があったはずです。アブラハムが実際、どの様であったかは分かりませんが、恐らくアブラハムは何度も何度も神様に問いかけたと思います。「本当にあなたの言葉ですか?」と。たぶん私だったら、「この言葉は悪魔の声でしょ!」と言ってしまうと思います。アブラハムはこの命令があった夜、たぶん一晩中、寝れなかったと思います。私のように反抗しなくても、神様の御心だと確信したとしても、寝れるはずはありません。そして、アブラハムは一晩中、血のにじむような苦闘をしながらも、次の朝、準備し出発します。そして、三日かかってモリヤの地に到着するわけです。

■ アブラハムとイサクの旅

この三日間の間、アブラハムは我が子イサクと一緒に、神様からの命令については、何の説明もせず旅をしました。でもイサクのほうはお父さんにいろいろ話しかけたと思います。いったいどのような会話をしたでしょうか?これも想像の域を出ませんが、「自分が大きくなったらどのようなことをしたい。」とか、そのようないろいろな事をお父さんに話しかけたと思います。また父アブラハムのほうはこの三日間、どのような思いだったでしょうか。本当に苦しい思いをしながらモリヤの地へ向かっていったと思います。そんな中、旅の終わり頃、 イサクもようやく異変に気付きました。(7節)そしてお父さんに尋ねます。「お父さん。全焼のいけにえはどこにあるんですか?」と。アブラハムはそれに答えます。「神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」そして更に旅を続け、二人は目的地に到着します。9節には、到着後、すぐにアブラハムはイサクを縛り祭壇に捧げようとします。この箇所は、さらっと1節で書かれていますけど、この時のイサクの心情はいかがなものだったでしょうか?この箇所は、よくアブラハムばかりがイサクを捧げた父親として取り扱われますが、実はイサク自身も自分自身を捧げる、その決意や覚悟があったと推測できます。イサク自身もお父さんの言葉に従順に従いました。でも最初は抵抗したかもしれません。「お父さんどうしてですか?」と言ったのかもしれません。しかし聖書にはその辺は書かれておらず、さらっと1節で、「縛って薪の上に置いた。」としか書かれていません。私は二人の娘を持つ父親として、この状況を考えると胸がはちきれそうになります。苦しすぎます!アブラハムももちろん、イサクにとっても苦しいことです!この二人の信仰がここに表されました。そして、ついにアブラハムは刀を取って、自分の子をほふろうとしました。(10節)それはポーズではありませんでした。ほふるような形をして「神様、いいですか?」「ハイ!カット!」みたいに、映画のワンシーンを作るみたいな訳ではなかったと思います。アブラハムはこの時、我が子イサクを本当にほふる決意をしていたわけです。実際にはイサクは死ぬことはなかったのですが、アブラハムの中では、すでに死んでいました。それほど神様はアブラハムを試みました。イサクをほふろうとした時、天から声がして「イサクに手を下してはいけない。」とアブラハムに語られました。そして全焼のいけにえの羊を、神様御自身が与えてくださいました。

■ アブラハムへの試練の理由

この箇所を未信者の人が聞くと、「やっぱり宗教は怖い!」「こんな怖い宗教は入りたくない!」と言うかもしれません。しかし、なぜ?このようなことを神様はわざわざ命じたのでしょうか。なぜ?アブラハムはこのような所を通らなければいけなかったのでしょうか。実は、この前の21章で、このような出来事がありました。それはエジプトの女ハガルがアブラハムに産んだ子、イシュマエルがイサクをからかっていたという出来事でした。この「からかっていた。」という言葉は、聖書の欄外では「笑っているのを見た。」と書いています。私はこの箇所を読んで、ただ笑っていただけで、サラは「あいつらを追い出せ!」と言ったことにびっくりしました。サラは、アブラハムに対してそれを要求しました。この要求にアブラハムは悩みます。それはサラにとってはイシュマエルは、女奴隷の子にしか過ぎないのですが、しかしアブラハムにとっては、自分と血のつながった子どもです。少なからず愛情が注がれているのは当然です。しかし妻のサラは、この子を追い出せと言うんです。アブラハムは非常に悩みます。すると神様がアブラハムに、「サラの言う事を受け入れなさい。」と言われました。アブラハムはやむなくその言葉に従って、ハガルとイシュマエルを追い出しました。

■ 神への信頼

ここの箇所には、私たちには理解のできない、神様の深い御心があるのだと思います。私たちには見える所と見えない所があります。だから私たちはその見える所で物事を見るのです。また自分の置かれた立場で理解しようとします。しかし自分の立場では理解できない事は沢山あるのです。その見えないことを見えてるつもりで、又、理解出来ないことを理解したつもりで語ってしまうと、大きな間違いを起こしてしまいます。神様の偉大なる立場の中にあってこそ、見えている事がこの箇所にはあったのだろうと、私は思います。私たちにはすべては理解出来ません。しかし神は最善をなされる方です!私たちが知るべき事は、ここで「どうしてですか?」と問いかける事よりも、「あなたは私にとって最善なことをなさいます!」と神様を信頼することです!そして、私達はこの大前提に立って、御言葉から学ぼうとすることが大切なんです!この大前提がなければ私たちの信仰は崩れてしまいます。そして、そこに入ってくるのはサタンの偽りです。アブラハムは我が子イサクを捧げる前に、イシュマエルを捧げました。彼は自分の手元からイシュマエルを放棄してしまいました。その後に「イサクを捧げなさい。」と語られたんです。アブラハムの心情は穏やかでなかったと思います。「イシュマエルの次はイサクですか?」「私の子孫は一人もいなくなりますよ。」と。しかし神様は、それを命じられたんです!みなさん、どうして神様がこのような所を通されたと思いますか?

■ 試練の前にある選び

創世記22章12節を読むと神様がここで語られた言葉は、「あなたがわたしを恐れていることがよくわかった。」という言葉です。しかし私たちが、この言葉をそのまま受け取るならば、アブラハムが神様を本当に信頼し、恐れているかどうかを試験されているように見えます。そしてアブラハムはその試験に、見事に合格したように見えます。ちょうど会社の入社時の面接のように、候補者を色々チェックし、彼が本当に会社にふさわしい人間かどうか?又、本当にやる気があるのかどうか?それをテストしているようだと感じるかもしません。そして、アブラハムは、見事その試験に合格したからこそ、信仰の父と呼ばれ、このアブラハムを通し子孫が星の数ほど増え広がっていく結果になったのかなと考えると思います。でもそれは本当でしょうか?私はそうは思いません!実は、神様がアブラハムの子孫が増え広がると約束をしたのは、この出来事の後ではないのです!この事が起こる前だったのです!イサクが生まれる前に、既に神はアブラハムに約束されていました。創世記21章12節に「 イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるからだ。」と書かれています。実はアブラハムは、我が子イサクを捧げるという試験に合格したから選ばれたのではありません。むしろ選びがあったからここを通らされたのです!この点を間違えないでください。私たちは何か良い行いが出来たからこそ、神様から何か良いことを任されると考えます。私も何度も、「小さな事に忠実でありなさい!」「そうすれば大きなことを任される!」と語ってきました。だから私たちは、何かを良く出来たご褒美として、何かをもらえると考えます。これはこの世の中の考え方のシステムです。しかし、この考え方は神様の方法ではありません!神様はまず選ばれるんです!そして、訓練されます。そして、その訓練の過程の中で私たちは、小さな事に忠実である事を学んでいくのです。そして、やがて大きなことを任されて行くのです。先に「選び」があるのです。神様はアブラハムに、「あなたが神を恐れることがよく分かった。」と語っていますけれど、神様は、この出来事が起こる前からその事を分かっていました。ですからこの事を本当に知る必要があったのはアブラハム自身だったのです!神様の為ではありません。アブラハム自身が一番大きな啓示を受け取りました。どのような状況でも神様の声を信頼して決断し、行うなら、神様は必ず最善をなしてくださる!そして、そこに備えが必ずある!という事をアブラハムはこの経験を通して学びました。これが信仰の父と呼ばれるような役割を果たしていく為の、アブラハムの選びに対する必要なトレーニングだったんです。

■ いつも喜べる!

この出来事があったから、この後もアブラハムは、ずっと神様を信頼し続けることができるようになりました。 私たちにはそれぞれに通るべき経験があります。それぞれに通るべき試練があります。その試練があなたの前に来た時に、あなたが何を選択し、そして決断するかがとても重要になってきます。その選択をまず神様に求め、神様の御心を選び取っていくならば、例えそれが簡単な決断でなかったとしても、難しい決断だったとしても、喜びが溢れるんです!希望が溢れるんです!牢獄の中にいながら希望を持っていた中国のクリスチャンたちのように、私たちは自分が今通らされている様々な試練の中で、主の御心を掴んで行くときに、喜びが溢れていくんです。1テサロニケの手紙5章に書かれている言葉、「いつも喜んでいなさい!」という御言葉を実践することができるんです!本当に私たちの喜びは、この世のものでは計ることはできないものです!なぜならそれは御霊から来るものだからです!この目に見えるものは一時的であり、目に見えないものは永遠に続いていくのです。この本当の喜びを受け取った人は、信仰を揺さぶられることは絶対にありません!

■ 手放すから受け取れる

私は一つだけ自慢できることがあります。それは救われてから一回も神様を疑ったことがない事です!神様への奉仕を辞めたいと思ったことが一度もありません!一度も古い生活に戻りたいと思ったことがありません!本当にこの道が喜びです!最高の祝福です!みなさんは、今どんなところを通っておられますか?神様に今、もしかしたら手放さなければいけないものを示されているかもしれません。それは自分の古い考え方かもしれません!自分の大切にしている物かもしれません!又、自分にとってかけがえのない人かもしれません!もしかしたら、自分の今ある地位かもしれません!しかしそれらがどんなに大切で良いものであっても、もしそれにしがみついているなら、私たちが神様の御心に従っていく為の決断はぶれてしまいます。そして、このしがみついた状態はもはや神様の恵みを受け取ることを拒絶した状態になるのです。私たちが本当に神様からの恵みを受けとろうとするならば、これを手放さなければいけません。みなさん!手に「ギュツ!」と何かを握っていると、何も受け取ることはできません!受け取る事が出来ないのです!でも手が開いているなら受け取る事が出来ます。手が神様の前に開いている状態が、「権利の放棄」の状態です。それが出来れば、神様はあなたにとって必要ではなくなったものをあなたの手から取る事が出来ます!そして、より良いものや新しいものをあなたに与えることが出来るのです!神様への信頼があれば私たちはいつも手を広げている事ができます!これが神様が私たちに望んでいる心の状態です!  天の父なる神様、どうぞ私たち一人一人の内に語ってください!私たちの心の深いところに触れてください!私たちは今あなたの御言葉の奥義の中に入りたいと願います。あなたが私たちに委ねようとしておられる真理の中に入りたいのです!私たちの目を、耳を、心を開いて下さい!そして、主からの啓示を与えてください!あなたの偉大なる恵みに溢れることができますように。また、その恵みがあなたの栄光、人の救いのために用いられていきますように。御名によって祈ります アーメン!


吉田和彦師講義CD・DVDの紹介

テーマ:「宣教における関係作り」(全10講義)
●講義内容(各55分)

  • 1. 関係のイントロダクション
  • 2. 互いに愛し合う 
  • 3. 気づきを与えるⅠ
  • 4. 気づきを与えるⅡ 
  • 5. 自由 
  • 6. 従順
  • 7. 権利の放棄Ⅰ
  • 8. 権利の放棄Ⅱ
  • 9. つまずき 
  • 10.愛すること


 

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