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ニュースレターNo.150

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2013年YFNゲストスピーカー
「聖霊のバプテスマ」主ご自身を味わう
新宿シャローム教会ユースパスタ- 富田慎悟師

■イエス様と、思いっきり繋がり、思いっきり離れる!

■私たちは、見たことも食べたこともない食べ物を知ってるとは言えません!それと同じように、イエス様を頭では知っていても実感は出来たとは言えません。これからもっとイエス様を味わい、繋がり、イエス様の命の中に生きていく、そのことをこれから一緒に発見していきたいと思います。私は15歳の時に初めて、イエス・キリストを自分の救い主として告白し、洗礼を受けました。我が家はクリスチャンホームではありませんでした。自分が中学生の頃に、私の母親がいきなり教会に行き始めたんです。母は今まで全く教会行ったことないのに、突然、ある日曜日の朝、起きたら母親が「早く用意しなさい!教会に行くから。」と教会に連れていかれました。私はとてもショックでした。私はその日、教会に行き礼拝に参加しました。そしてその日の内に「あなたイエス様を信じますか?」と言われて、「はい!信じます」と言いました。そしてそれから2ヶ月後には洗礼を受けました。ものすごく早くイエス様を信じ、ものすごく早く洗礼を受けました。しかし、主から離れるのも、ものすごい勢いで離れてしまいました。それは18才から20才にかけての頃です。その時は私は、人生に何の希望も目的もなく、心の中にいつも失望感がありました。生きる意味など何もなかったんです!でもそこで私はひとつの決心をしました。それはどうせしょうもない人生だったら、思いっきりしょうもない人生を生きてやろうと!どうせ意味のない人生だったら、思いっきり意味のないことをやろう!と決心しました。そして、その月に最後にもらった給料を手にひとつのビジネスをスタートしました。そのビジネスとはギャンブルでした。全然ビジネスとは言えませんが、数週間は本当に面白くて、数万円から始めたそのビジネスが、2ヶ月経ち80万円に増えました。でもやがて心の中に虚しさが広がり、それがどんどん増し加わっていきました。いつも虚しく虚しくて、その虚しさが心から消えませんでした。ある夜、もう我慢できなくなり、押し入れの中にあった段ボールの中から聖書を引っ張り出し読みました。どこを読んだか覚えていませんが、その中の1つの言葉が私の心に突き刺さりました。それは「自分の手で働きなさい。」という言葉です。その1節を読んだ瞬間、その言葉は、私の心の中を突き刺しました。そしてその後、その言葉がまるでエコーのように耳に響き続けました。やがてそれを境にギャンブル生活はうまくいかなりました。そして仕事を捜しました。捜している時、1つの求人募集が目に入りました。それは日本料理屋さんの求人募集でした。私はどこでも働こうと決めていたので、すぐ電話しました。そして翌日に面接があり、その次の日から働くことが決まりました。 私はとても喜びました。働くのはいいことですね!でもこの日本料理屋で働いた1年間が私にとって本当に大きなチャレンジの時となったんです!

■ とんでもない職場でのチャレンジ!」

■私は、その職場に行って最初の日に、これはとんでもない所に来てしまったと思いました。なぜならその職場のオーナーは元暴走族のリーダーで、見た目もいかつく、職場の社員に対して信じられないくらい怒鳴るんです。私は後悔しました。でも、私はこの職場で頑張ろうと決めました。そんなある朝、職場に行くと、オーナーが鬼みたいな顔で電話してるんです。「どうしたんですか?」と聞くと「あいつが来ないんだ!電話も繋がらないんだ!」と言ってるんです。結局そのまま社員は行方不明となりました。そしてその後、オーナーが私のところに来てこう言いました。「おまえは逃がさないぞ!」いや~!困ったことに、そのオーナーは我が家のすぐそばに住んでいました。もう捕まった!と思いました。

■それから1か月も経たないうちに私は、その職場のリーダーになっていました。それからが私にとっての本当のトレーニングでした。私は毎日怒られました。そして毎日のように泣いて帰りました。翼があったら飛んで逃げたいと思いました。夜、眠りにつくとオーナーが鬼みたいな顔で夢に出てきて「コラ!」って怒るんです。そのたび飛び起きました。もうその頃は体重が49kgしかなく、本当に骨と皮だけになってしまいました。

■ある夜、いつものように怒鳴られ家路につきました。その日は寒い夜でした。自分の部屋に入りひざまずいてすぐ祈りました。その時、今までどうしても出て来なかったひと言が口から出てきました。それは「神様、ごめんなさい!」というひと言です。それから私は続けて「本当に私にはあなたが必要です!イエス様!私はあなたのもとに帰ります!イエス様!私はあなたを求めます!主よ、赦して下さい!」と祈り出しました。そのことがあった時から私は、神様との関係が繋がっていきました。悔い改めは神様と繋がる第1歩です。それ以来、私は神様に向かって歩むことが、自分の人生の楽しみになりました。でも仕事ではストレスだらけです。いつも職場に対する恐れがありました。だから少しでも時間があればトイレに駆け込み、そこでひざまづいて祈りました。「主よ助けてください!今日の働きもあなたの助けがなかったら私はできません!」トイレが私の憩の場、主を礼拝する場所でした。もう汚くても全然構いません!私はびざまづいて、そこでよく祈っていました。

■イエス様のために生きていく決心!

■やがて私は、日曜日に教会に行くことが、私にとっての一番の楽しみとなりました。そこで神の家族とともに時間を過ごす。神を賛美する事。その時間が自分の人生にとっての何よりも貴重な時間となりました。 そんな時、ある集会に参加しました。ちょうどゴールデンウィークの時期でした。その中でゲストスピーカーの先生がメッセージの後、招きをしました。「今日この中で牧師に宣教師にまた伝道師に、また将来、神様のために人生を捧げたいと思っている人は手を挙げなさい!」私はその祈りの言葉が自分の耳に入った瞬間、何か衝撃みたいのものを感じました。自分の人生の中で初めて手をあげてみたいと思ったんです。でもあげれませんでした。あげる勇気がなかったです。なぜなら周りに自分の兄弟や友達がいたからです。手を上げたら絶対笑われる、みんなに後できっとばかにされると思ったのです。するとそのメッセンジャーがもう一度しつこく聞きました。「今日この中に確かに、将来牧師に伝道師に、また、宣教師に神様の働きに自分の人生を捧げたいと言う人がいるはずです!手を挙げなさい!」私はその瞬間、手をあげていました。そして祈ってもらいました。この祈りの後、私の心の中に喜びがわきあがったんです。それは自分の人生に生きる道を発見した瞬間でした。自分も生きている意味があるんだ!心の中から喜びがあふれ、それをどうしたら良いのかわからないくらいの喜びでした。

■それから私は沢山のノンクリスチャンの友達に電話し、イエス様のために生きていく決心を伝えました。でもみんな口をそろえて、「無理だよ!」「そんな似合わないからやめた方がいい!」そういいました。でも母親なら信じ喜んでくれるだろう?と思って連絡しました。すると母親も、「あなた、ちょっと考え直しなさい!」という返事でした。それは無理もない事です。何故なら以前の自分を母は良く知っていたからです。友達もだめ、母もダメ、自分の心は落ち込みました。自分は捧げたいと思う、自分はイエス様のために何かしたいと思う、でもこんな自分を捧げたところでいったい何になるんだろう?何ができるんだろか?自分を捧げたいと思っても、神様はこんな小さな者を必要としてないんじゃないか?そんな思いが心の中に広がって行きました。でもある時、職場から帰って聖書を読むと、1つの言葉が、私を献身へ導く確かな確信となりました。

■それは1人の盲人の話です。盲人は道でホームレスの生活をしていました。エリコという町に向かう道端に座っていました。そして彼の生活は、道端から「お金をください!」「食べ物ください!」「わたしをあそこまで運んでください!」「私を助けてください!」この盲人は人々から助けをもらう事だけが人生のすべてでした。しかし、彼がそこに座っていると、今まで聞いたことがない人々の足音、話し声が聞こえてきました。彼は人に聞きました。「どうなっているんだ?」何故?こんな大勢の人が来るんだい?」と。するとある人が答えたました。「今からイエス様がここを通るんのだ!」その瞬間、彼は立ちあがったんです!今まで彼は物乞いをしていました。しかし、その彼が立ち上がって叫び声をあげたんです!「ダビデの子イエス様!私がここにいます!」「私を憐れんで下さい!」「ダビデの子のイエス様!私を憐れんで下さい!」彼が大声で叫び出した瞬間、周りは怒り出しました。「うるさい!お前がイエス様を求めても何も変わらないのだ!」「うるさいからいつものようにそこに座っとけ!」人々は彼を無理やり座らせようとしました。しかし彼は叫び続け、その声がイエス様の耳に届きました。イエス様は彼のところに来て、彼に尋ねます。「私に何をしてほしいのか?」彼はすぐに答えます。「目が見えるようになることです!」するとイエス様は、「あなたの信仰が直したのです。あなたの信仰の通りになれ!」と言った瞬間、彼の目は見えるようになました。彼は喜び賛美しながらイエス様の後をついて行きました。

■この時、周りの人達どのような反応をしたのでしょうか?ルカ18章43節には「彼はたちどころに目が見えるようになり、神をあがめながらイエスについて行った。これを見て民はみな神を賛美した。」とあります。今まで人々が叱りつけ、叫ぶのを止めさせていた盲目の男が癒されてイエス様についていくその姿を見、そこにいた民はみな神様を賛美するようになりました。

■その御言葉を読んだ瞬間、私は「これだ!」と思いました。私を誰も期待せず、自分自身もある意味で信じらない、そんな小さな存在の私でも、この盲人のように立ち上がってイエス様を求め、変えられて行く時、必ず、人々の内に賛美がわき上がる!人々は、本当に神の素晴らしさをほめたたえるだろう、そう思いました。だから皆さん!自分のことを小さく思ったとしても決して失望しないでください!だれがあなたに出来ないと言ったとしても、私たちは諦めてしまう必要はありません!自分は取るに足らないちっぽけ過ぎる、中学生だから、高校生だから、経験がないから、そのように思って、自分を小さく見る必要はないんです!イエス様は私たちがどのような存在であったとしても、立ち上がって主の名を呼ぶ者たちを通して、大いなる栄光を現すことがおできになるお方だからです!あなたを通して、神の名が褒めたたえられるんです!あなたを通して、周りの人々に神に向かう賛美がわき上がることとなるんです!ある意味、私たちは立派すぎない方がいいかもしれません。私たちが立派すぎると、人はあの人が立派だから出来たんだって思うかもしれません。でも小さな私たちが立ち上がって行くとき、その栄光は神に、イエス様の御名だけが褒めたたえられることになるんです!

■ 献身を表明したけれど!?

■私は献身を決意しました。神様に全部を捧げ、職場を辞め、神学校に行く事を決心をしたんです。そのことをオーナーに話し辞める日が来ました。しかし、困ったことに、私の代わりの人が決まりません。来ない訳ではなく、すぐにいなくなるのです。もう辞める日がきて、私はオーナーの部屋を行き、ひざまずき言いました。「オーナー、私は神様を信じています。そして聖書の中には、このように書かれています。主を愛するように、あなたの主人を愛しなさい。だから今、私の主人は、オーナーあなたです!こんな私で良かったら、後釜が見つかる時まで、私を使ってください!」そう言いました。そうすると、あの鬼のように恐ろしいオーナーが、突然上を向き、その目から涙がスーとこぼれ落ちました。そして「ありがとう!」と言って私を抱きしめたのです。更にオーナーはこういいました。「お前の言っている意味よくわからないけど、お前の中にあるものは何か好きだ。」しかしその後、半年ぐらいたっても後釜が見つかりませんでした。私は長く待たされる事で少しづつ失望していきました。祈っても賛美しても満たされない思いが続きました。教会に行くと、人々が手を挙げて賛美し、涙を流しながら祈っている人たちがいます。でも自分にはそういう感覚が全くありませんでした。私は少しづつ疑いはじめました。「私は決心したけど、あれはやっぱり自分だけの決心だったんじゃないか?」「主は私を、召しておられないんじゃないか?」そんな思いになっていきました。

異言が溢れて止まらない!

■しかし、その年の夏の終りに、悩みと不安いっぱいの中、一人で部屋で祈っていたとき、突然、何か大きな手みたいなものが私を捉えるのを感じたんです。そして、おなかの奥底から何かがわき上がってきて、私はひとり部屋でひれ伏し、大声をあげて泣き続けました。自分でも何が起こっているか分からないまま涙が溢れて、大声で1時間以上も泣き続けました。そんな事が毎晩続いたんです。私は自分がついに頭がおかしくなったと思いました。そして、日曜日に教会に行き、牧師先生に相談しました。すると牧師先生は「君!それは聖霊のバプテスマを受けたんだよ!聖霊様があなたの内に臨まれたんだ!」そして、「聖霊様が臨まれた時にあなたは異言を求めましたか?」と訊ねました。私は「求めてません。」と答えました。牧師先生は「じゃ、帰ったら求めてください!」と言われ、私は家に帰って求めてみました。すると信じられないくらいに、いきなり内側から何かが湧き上がってきて、口が勝手に動き出し、異言が溢れて、心から主にハレルヤ!と感謝しました。しかし異言が与えれたことはよかったんですが、止め方が分からなかったんです!与えられ方は聞いてました、しかし、止め方は聞いていなかったんです!寝る時間になっても異言は止まらず、寝る事が出来ず、あと仕事に行くまで2時間位しか寝る時間が出来ないのに、寝ようとしても口が勝手に動き出し祈り始めるんです。結局その日は一睡も出来ず職場に行きました。職場でも止められないんです。我慢しようとしても口が勝手に祈り出すんです。だから仕事中も、下を向いて働いていました。しばらくするとオーナーと社員が相談し、いきなり私のところに来て、私を捕まえ、私の腕をめくり「お前!薬やってるだろう?」と言われました。私は「違います!薬じゃないんです!」と言っても、またすぐ口が動き始めるので、何の言い訳にもならないんです。薬物のせいではではないと理解した社員が、「それはいいことなの?」と聞いてきたので、「これは良いことです。」としか答えられませんでした。結局一週間くらい異言が止まりませんでした。誰でも私みたいな体験をするわけではありません。それぞれ聖霊様の働きがあります。しかし、私はあまりにも神様から遠くに離れ過ぎていたので、神様が強力な体験をさせてくださったんだと思います。

■ イエス様だけが扉を開く方!

■もうひとつの御言葉を見たいと思います。黙示録3章7節・8節「また、フィラデルフィヤにある教会の御使いに書き送れ。『聖なる方、真実な方、ダビデのかぎを持っている方、彼が開くとだれも閉じる者がなく、彼が閉じるとだれも開く者がない、その方がこう言われる。わたしは、あなたの行いを知っている。見よ。わたしは、だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた。なぜなら、あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。』」

■主が私たちの人生の前に、「扉」を開く理由は何でしょうか?私たちが力があるからでしょうか?それは違います!むしろ力がないものです。 この聖句には「少しばかりの力があって」と書かれています。この言葉の本来の意味は「少しの力しかない」という意味です。この「少し」という言葉は「ミクロス」という言葉です。それは「ミクロ」(目に見えないほど小さなもの)語源になった言葉でもあります。ですから「あなたには目に見えないほどの小さな力しかなかった」でも、「主に忠実だった!わたしの名前を否まなかった!わたしから離れなかった!」それゆえに主は、誰も閉じることのできないその扉を開いておいたのです。主は、そのように私たちに約束してくださっています。みなさん!イエス様が扉を開くなら、誰も閉じることができません!

 

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