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あなたはどちらにつくのか
ISMゲストスピーカー「エリコにおける勝利」
キングスレイ・アームストロング師
キングスレイ・アームストロング師
■アイルランド出身。インターナショナル・ゴスペル・アウトリーチ代表。宣教師。
約束の地へ導く
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ヨシュアがモーセより受け継いだ大切な任務は、イスラエルの民を「約束の地」へと導くことでした。しかしその任務の目的は単に入ることだけで終わりではなく、その地を獲得し、勝利を得る為です!ヨシュアに導かれイスラエルの民はいよいよ約束の地に入ります。しかしすぐに最初のチャレンジに直面します。これがエリコでの戦いです。 私たちの人生においてもさまざまな戦いや困難があります。私達にとっての約束の地は奉仕や働きですが、この奉仕や働きが今は楽だと言っている人はどうか安心してください!明日から大変になるかもしれません。(笑)でも、みなさん、勇気を持ってください!神様は必ず勝利し征服できると約束してくださっています!
今日はヨシュア記の5章の最後から6章の最初を見て行きたいと思います。
「さて、ヨシュアがエリコの近くにいたとき、彼が目を上げて見ると、見よ、ひとりの人が抜き身の剣を手に持って、彼の前方に立っていた。ヨシュアはその人のところへ行って、言った。「あなたは、私たちの味方ですか。それとも私たちの敵なのですか。」すると彼は言った。「いや、わたしは主の軍の将として、今、来たのだ。」そこで、ヨシュアは顔を地につけて伏し拝み、彼に言った。「わが主は、何をそのしもべに告げられるのですか。」すると、主の軍の将はヨシュアに言った。「あなたの足のはきものを脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である。」そこで、ヨシュアはそのようにした。」(ヨシュア5章13節~15節)
神の軍の将の登場
■ 神の軍の将が突然、ヨシュアの前に立ちはだかります。これは実に驚くべき神の現れの箇所です。多くの聖書学者は、この将は受肉前のイエス様であろうと言っています。なぜこれがイエス様と言われているかというと、それはヨシュアが神の軍の将の前にひれ伏しているからです。御使いは礼拝を受けることはありません。イエス様は肉体において馬小屋で誕生する遙か以前から三位一体の神として存在し、永遠に万物を保っておられる方です。みなさんも今ここにイエス様が神の軍の将として立たれたらどう思いますか?それは想像もつかないような出来事です。でも私たちは常に御使いに取り囲まれています。それを目にすることはなくても私は感じる時があります。私がイギリスで運転していると、いつも御使いが守ってくれていると感じるのです。というのは、イギリスにはクレイジーな運転をする人が多いのです。聖書には御使いは神に仕え、人に仕えると書いてあります。私たちは御使いに守られているのです。そして勿論、悪霊の存在もあります。ルシファーが天から落とされた時、1/3の天使がついて行ったと言われています。ということは、残りの2/3の御使いが私たちとともにいると言うことです!しかも聖霊様も共におられます!聖霊様は同時にどこにでもおられ、全世界の神の国の民に同時に話しかけることが可能です。悪魔はそのようなことはできません!そのことからも私たちは勝利者となるのです!
神がヨシュアの前に現れ、この時、将の剣は抜かれていました。それは、戦いが終わったか、又、今から始まるのかどちらかを意味しています。でなければ剣は鞘(さや)におさめられているはずだからです。今も天において霊的な戦いが行われている事を忘れてはいけません。みなさん!最近、特に西側の社会において激しい戦いが行われいるのをご存じですか?それは同姓婚の問題です。社会の根本的な基盤は家庭です、しかし今、イギリスやアメリカにおいて同性同士の結婚を認めるかどうかで激しい論争が巻き起こっています。これは教会に対しての激しい攻撃です。神様の計画は、男と女が結婚し増えて行くことですが、同性同士が結婚しても子供を産むことはできないのです。多くのクリスチャンがこのことに気づいていません。私たちを取り巻く世界はこのような霊的な戦いの中にあります。この戦いの中で神の御子イエス様が剣を持って立っておられるのです。これは祈りの戦いです!祈りという領域で戦うわけです。肉的な戦いではありません!霊的な戦いです!私たちは霊的な武器で霊的な要塞を打ち砕くことができるのです!
ヨシュアの最初の問いかけ
■ ヨシュアは主の軍の将が、突然目の前に現れた時、思わず一つの質問をします。「あなたは私の味方ですか?敵ですか?」(13節)この時にヨシュアは何を期待したのでしょうか?恐らく「私はあなたの味方です。」と言って欲しかったと思います。しかし、軍の将は「いや、どちらでもない、私は主の軍の将として今ここにいる。」と言われました。これは驚きの言葉です。これは何を意味するかと言うと、神がどちらにつくかより、あなたがだれの側についているか?これが大切だということです。ここで神はご自身の立場を明確にされたのです。あなたは私の方についたほうがいいですよ!ということです。このことに気付いた時、私はすごく楽になりました。私は、メソジスト教会で救われ、神学校ではメソジスト神学で教育されました。今では感謝していますが、その学校には、長老派の人たちもいました。毎日、それぞれの再臨の神学について質問し合いました。それぞれが違う教えを受けていますから、話し合っているうちに思いの中での戦いになってくるのです。この人が正しいか?あの人が正しいか?ということになってしまうのです。教団は、その教団の教えをとても大切にします。しかし、すべてを決めるのは神様なのです。神様は再臨されるときに、「アームストロングよ!そろそろ行ってもいいかい?」なんて聞かないんです!神様はご自身の働きを人に聞いてから行ったりしません。神様は、ご自分が望まれるままに働かれます。ですから教会がお互いに争っている事は、実は大して重要なことではないのです。一番重要なことは、私達が神様の側についているかどうかです。ヨシュアは、神様にあなたの味方だと言ってほしかったんですね。もちろん主はヨシュアの味方なのですが、それが一番大事ではなくて、私たちが神様の側に立っているかどうかということが重要なのです。私は世界各国を回って奉仕する機会があります。そしてそこで神様がそれぞれの壁を取り除いてくださっているのを見ます。だから私たちは手を取り合って働くことができるのです。私たちの将は神様だからです。将である神様の為に働くときに私たちは一致することが可能です。
ヨシュアの2つめの問いかけ
■ ヨシュアは、神様からの答えを聞いたとき驚いたと思います。顔を地に伏しつけて拝みました。そして二つ目の問いをしています。最初の問いは、あなたは私の味方ですか?という問いで、二つ目は、「わが主は、何をそのしもべに告げられるのですか。」(14節)と尋ねました。ヨシュアは最初の答えに驚きました。しかし、この二つ目の答えにも驚いたと思います。ヨシュアは神様からの力強いメッセージを求めました。恐らく「この戦いは主の戦いだ!絶対勝利できるから安心なさい!」という答えを期待したと思います。しかし、神様の答えは意外なものでした。「靴を脱げ。あなたの立っている場所は聖なるところである。」(14節)という言葉です。これは素晴らしいメッセージです。抜き身の剣を手に持ち、これから戦いが始まろうとしている時に、「上着を着て武器を持ちなさい!」ではなく、先ず「靴を脱ぎなさい。」そして「礼拝しなさい。」ということです。これはすごい答えです。みなさん、普通はこれから戦いが始まろうとしているのにじっとしている場合じゃない!と思うかもしれません。しかし、だからこそ静まる時が必要です。私たちは静まって主が神であるということを知らなければなりません。神様にとっては、その時は早すぎることもなければ、遅すぎることもありません。そして、急ぐこともありません。神様がそこにいてくださるなら、そこが聖なる場所です。そして、みなさん!主が共にいてくださるという事実が大切な事です。その約束が大切な事です。みなさん、5章の最後の言葉をご覧ください。すばらしいですね。「そこで、ヨシュアはそのようにした。」(ヨシュア記5章15節)神様と議論などせず、すぐに従いました。
エリコでの戦い
■ では、6章に入りましょう。「エリコは、イスラエル人の前に、城門を堅く閉ざして、だれひとり出入りする者がなかった。主はヨシュアに仰せられた。「見よ。わたしはエリコとその王、および勇士たちを、あなたの手に渡した。あなたがた戦士はすべて、町のまわりを回れ。町の周囲を一度回り、六日、そのようにせよ。七人の祭司たちが、七つの雄羊の角笛を持って、箱の前を行き、七日目には、七度町を回り、祭司たちは角笛を吹き鳴らさなければならない。祭司たちが雄羊の角笛を長く吹き鳴らし、あなたがたがその角笛の音を聞いたなら、民はみな、大声でときの声をあげなければならない。町の城壁がくずれ落ちたなら、民はおのおのまっすぐ上って行かなければならない。」(6章1節~5節)みなさん、これは神様が話してくださった驚くべき言葉です。ヨシュアは、これを聞いてあいた口がふさがらなかったのではないかと思います。いったいどうやって自分の軍の人たちに伝えようか。一度も武器を使わず、七回まわるなんてどのように説明しようかと。
1節を見てください。「エリコは、イスラエル人の前に、城門を堅く閉ざして、だれひとり出入りする者がなかった。」(1節)イエス様は「盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」(ヨハネ10章10節)と言っておられます。エリコというのは敵陣のことです。出入りさせないで縛るのは敵の仕業です。しかし、イエス様は門です。イエス様にある者には自由があります!
この戦いに必ず勝つ!
■ エリコの門は固く閉ざされていて誰も出入りすることができません。私たちは確かにキリストの奴隷ですが、本当に自由だということができます。みなさん!私たちは「悪魔の奴隷になって縛られるか?」「神様の奴隷になって自由になるか?」の2つしかありません!2節を見ると、「見よ。わたしはエリコとその王、および勇士たちを、あなたの手に渡した。」(6章2節)と書いてあります。ですからこれは、ヨシュアへの神様からのメッセージで、「あなたは必ず勝利する!」という約束です。神様は、「この戦いは必ず勝つよ」と言ってくださっています。「しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加え、至る所で私たちを通して、キリストを知る知識のかおりを放ってくださいます。」(2コリント2章14節) 神様は、私たちに勝利を約束してくださっています。そして、4節で指示が与えられています。非常に珍しい指示ですね。聖書にはこれ以前にこのような指示は一度もありません。神様には神様の方法があります。ですから、神様が世界で起きているリバイバルと同じ方法を用いて日本にリバイバルを起こすとは限りません。というのは、日本が持っている霊的雰囲気はほかの国と違うからです。この間、札幌がつくられた歴史を聞きました。人が離れないように公な売春宿を作ったと聞きました。ですから、札幌の土台には性的な放縦が最初からあるわけです。これは、私のアイルランドの霊的雰囲気と大きく違います。ですから、アイルランドで直面しなければいけない霊的戦いと、札幌が直面しなければならない霊的戦いの種類はまったく違うということです。そして目に見えない世界のことは私たちには全部は見えません。みなさん、私たちは神様の方法を学ばなければいけません。そのためには、日々神様と交わりをもたなければいけません。クリスチャンライフは、私と神様の関係に基づいたものだからです。聖霊様は私たちの内に与えられていて、聖霊様を通してイエス様と歩む方法を導いてくださいます。
神の勝利は約束されている!
■ 4節に入っていきます。「ラッパを吹きならせ」と書かれています。「七人の祭司たちが、七つの雄羊の角笛を持って、箱の前を行き、七日目には、七度町を回り、祭司たちは角笛を吹き鳴らさなければならない。」(4節)角笛は勝利のしるしです。ですから始まる前から勝利のしるしがあらわされるということです。私たちも積極的な人たちといる事は、大切なことです。いつも出来ると言ってくれる人たちです。いつも不平不満ばかりの人もいます。太陽が出ればいつも熱い、雨が降れば濡れる、冬は寒い。教会にそういう人がいるかもしれません。しかしこの角笛とは、私たちは勝つ!という声です。2歴代誌13章にアビヤという人が出てきます。アビヤが立ち上がって勝利を宣言すると、敵が後ろに回ってきました。アビヤが目を開いてみると敵に囲まれています。しかし角笛を吹きならすと、神様が勝利を与えらました。ですからみなさん、私たちも、信仰をもって歩んでいるのに状況が悪化することがあります。たとえば、請求書が来て支払えない状況の中で神様どうか支払うことができますようにと祈ります。次の日また郵便物が届きます。その中にお金が入っていることを期待しながら開けると、もう一通の請求書が入っていました。これはかなり落ち込む状況ですよね。しかし、私たちは勝利を宣言しなければいけない時がある。私は必ず勝つ!と。神様は、私にこの場所を与えたと言ってくださっているからです。 5節を見てください。主がこの町を与えたから叫べと書かれています。「祭司たちが雄羊の角笛を長く吹き鳴らし、あなたがたがその角笛の音を聞いたなら、民はみな、大声でときの声をあげなければならない。~」(ヨシュア6章5節)興味深いことは、城壁の周りを回る時は、喋ってはいけないという命令は神様は言っていません。ヨシュアが加えたことです。ヨシュアは神様に言われてないことを命令しているんです。それは、彼らが、口を開けば何を語るか知っていたからです。城壁の周りをグルグルまわるなんてそんなアホなことはないと。民が不平不満を言うことを知っていました。だから、ヨシュアは黙れと言ったのです。そして、主がこの町を与えられたから(完了形)叫べと書いてあります。信仰による勝利宣言です。マルコの福音書にこれと同じような考え方が書かれています。「だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」(マルコ11章24節)あなたが祈り求めれば何でもという事は、(未来)のことです。既に受けたと信じなさいという事は(過去形)です。それはあなたのものとなります。これを私は信仰のギャップと呼んでいます。目には見なくても、イエス様が与えてくださることを信じて叫ばなければいけない期間があるということです。難しいことですが、信仰によってこのように実践しなければなりません。ヨシュアも「主がこの町を与えてくださったんだから叫べ!」と宣言しています。そして、一つの忠告があります。それは、すべての栄光が神様に返されるようにしなさいという忠告です。すべての栄光は主に返さなければなりません。私たちは、エリコに直面する時が来ます。私たちは、神様に従おうとするとき、必ず戦いがあるからです。あなたが、「この日本の為に用いてください」と祈ると、神様はそれをご覧になります。そして悪魔もそれを見て、あなたをやっつけようとします。でも心配しないでください。私たちには、勝利が約束されていますから、信仰によって勝利を叫んでください!そして勝利に堅く立ってください!必ず日本で主の栄光を見ます!■
(P2~P5)