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ニュースレターNo.148

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私たちの召しとは何か?

ワーシップセミナー講義「御霊の働き -私たちの召しとは何か?ー」
マルコ・バリエントス師

マルコ・バリエントス師

■米国セントロ・インターナショナル・アリエントの主任牧師であり、現在世界で最も油注がれた賛美リーダー。過去ゴスペル部門のグラミー賞に2度ノミネートされる。46の賛美礼拝プロジェクトをレコーディングしたレーベルであるアリエント・プロダクションの創立者で代表。

■この授業では、土台となるものについてお話したいと思います。それは、神様に仕える者としてのアイデンティティーについてです。ワーシップというテーマなので、「ミュージシャンかそれとも奉仕者か」というタイトルのメッセージをしたいと思います。私たちはミュージシャン(あるいは歌い手)である以上に、奉仕者-みことばに仕える者-であるべきです。

「ワーシップリーダー」などという「召し」はない!

■最初から、はっきりとお伝えしたいと思いますが、音楽は奉仕ではありません。ワーシップをリードするのも実は奉仕ではありません。音楽を演奏することも、それ自体が奉仕ではありません。ミニストリーという言葉を「奉仕」や「仕える」と訳すなら、ワーシップをリードするミニストリーも奉仕の一部であると言うことはできるでしょう。しかし、はっきりと言いますが、「楽器を演奏する事はあなたの奉仕です」と言うことはできません。あなたの「職業」と言うこともできません。あなたの「召し」と言うこともできません。私はワーシップをリードして約30年が経ちますが、神様が私を「ワーシップ・リーダー」として召して下さっているかもしれない、と思っていた時もありました。しかし、そのような召しはない、ということが今はハッキリとわかりました。神様はあなたをワーシップ・リーダーとして召すのではありません。神様があなたを「ピアノの演奏者」とか「ドラムの演奏者」として召すのではないのです。「じゃあ、音楽を演奏することや、ワーシップをリードすることが奉仕ではないとしたら、私の奉仕は何ですか?」と思う方もいるでしょう。「あなたは私の奉仕を取り上げるのですか?」と思っている方もいらっしゃるかと思います。 そうではないのです。あなたには、あなたの奉仕があるのです。それでは、あなたのミニストリーとは何でしょうか?それは、『御霊の働き』なのです。とても霊的に聞こえるけれど、あまり実践的には聞こえないかもしれませんね。ちょっと説明しましょう。

「音楽」は道具にしかすぎない!

■音楽は道具です。「音楽=道具」です。ワーシップ・リードは、一つの機能です。それらは奉仕ではありません。それぞれ、とても大切な機能であり、道具であることは確かです。私たちの道具箱にはこれらは必ず入れておくべきでしょう。大工さんは、道具箱の中にたった一個の道具を入れているわけではありません。たとえばノコギリやのみ、ねじまわしなど、たくさんの道具を使います。私たちも同じように、たくさんの道具の入った道具箱を持っているのです。もしあなたが楽器を演奏するならば、それは素晴らしいことです。とても力強い道具です。 でも、それだけではないのです。ある集会の中で、ピアノを弾く人もいればドラムを演奏する人もいるでしょう。しかし、その人を単なる「ピアノ奏者」「ドラム奏者」と見ることはできないのです。それは、あくまでも機能であって、そのことがその人を定義づけるわけではありません。あなたはミュージシャンではなく、あなたは奉仕者なのです。あなたはワーシップ・リーダーなのではなく、あなたは奉仕者なのです。聖霊様の働きをするために、この理解はとても重要です。ルカの福音書1:2「初めからの目撃者で、みことばに仕える者となった人々が、私たちに伝えたそのとおりを・・・」の『仕える者』のギリシャ語 huperetes は、「下の漕ぎ手、下位の漕ぎ手、手を使って仕える人」という意味です。この節をよく見て下さい。「みことばに仕える者」とあります。これは非常に実践的な意味で使われています。実は新約聖書は「音楽」という役職とか、「ワーシップ・リーダー」という立場については一切言及しておらず、「歌い手」や「タンバリン奏者」という肩書も出てきません。しかし、「預言する人、奉仕する人、教える人、勧めをする人、分け与える人、指導する人、慈善を行う人」という表現は出てきます。ここに「勧めをする人」という言葉が出てきますが、「勧めをする」という言葉には、とても力強い意味があります。フランス語やスペイン語で「勧めをする」というのは、人を矯正するときに使う言葉なのですが、原語のギリシャ語では、「間違ったことを罰する」というような意味ではなく、むしろ「倒れてしまった人を励まして建て上げる」という意味があります。もともとの原語の意味は、言葉を使わないほうが伝わります。「励ます」とはこういう意味です。倒れてしまった人を起こし、支え、強め、共に歩む、ということなのです。倒れてしまった人は、自分に自信をなくし、傷を受けているでしょう。ですから、励まし、勧めが必要なのです。音楽という力強い道具を用いながら、「音楽だけが私の奉仕だ」と考えているなら、そこまでです。将来神様が何をなさろうとしているかという事に対する燃えるような情熱は持てないで終わってしまいます。しかし、楽器を演奏することは、道具であり、音楽という翼に乗せて御霊の働きを運ぶことなのです。

「奉仕者」とは神の御霊に仕える者!

■御霊の働きというのは、イザヤ書61:1-3節に書かれています。「神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕われ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。」この聖句を一言一句見ていくと、三つのことがでてきます。「灰」の代わりに「美しさ」を、「悲しみ」の代わりに「喜びの油」を、「憂いの心」の代わりに「賛美の外套」です。これこそが聖霊様の働きであり、あなたの働きなのです。私の中には火があって燃えています。私には、この世代のために心からの叫びがあります。なぜなら、この世界には傷ついている人がたくさんいるのです。そして敵に縛られています。ですから、私たちは単にミュージシャンではなく、奉仕者、ミニスターにならなければならないのです。それでは、自分が単にミュージシャンではなく、神に仕える奉仕者であることをどのようにして知るのでしょうか? 非常にシンプルです。たとえばあなたがピアノを弾いたり、歌を歌う時、どんなことが起きているでしょうか?人がただあなたの音楽を楽しんでいること以上に、もし何も起きていないのだとしたら、自分は単なるミュージシャンではなく神に仕える奉仕者だ、ということをまだ理解していないのだと思います。私の質問はこれです。「私たちはいつまで、ただ歌い、ただ音楽を演奏していればいいのでしょうか?」私たちの中には、神の御霊に仕えることのできる資源がすでにあるではありませんか。あなたが演奏するとき、あなたの手の中には能力があります。あなたの心の中にあることだけを伝達するだけではなく、神様の心の中にあることを伝達する力があなたにはあります。あなたが演奏するとき、ひとつの周波数があります。あるトーンがあり、それが楽器から発生されます。それは普通の周波数とは違います。ただキーボードを叩いている人とは違う周波数が発生します。全く別な周波数やトーンが発せられるのです。もしグラフィックアナライザーがあれば、私が今言おうとしていることを、お見せする事ができると思います。ただ演奏し、ただ歌っているのではなく、御霊をいただいている人が演奏し、歌うとき、全く別の周波数やトーンが発させられるのです。ですから、空気中を単にメロディーが伝わっていくだけではないのです。そこには人を解放するためのある種のものが発せられているのです。ルカの4章にある、イエス様が会堂でイザヤ書から朗読したときのことを考えてみてください。イエス様がルカの4章でイザヤ書を読みましたが、人々は驚いたと書いてあります。なぜ人々は驚いたのでしょうか?答えは聖書にはっきりと書いてあります。ルカ4章22節「人々は恵みの言葉に驚いた」と書いてあります。なぜでしょうか?イエス様が読んでいた「言葉」ではなく、「どのように読むのか」が違うのです。同じ言葉でも、声のトーン、調子で全く違う意味を持つのです。楽器屋に行くと、音を電子的に変える装置があります。私たちの声や演奏を、聖霊様によって調節していただくならば、誰かが一言も言う事もなく、祈ることもなくても、そこにいる傷ついた人が涙を流すことになると思います。聖霊の働きというのは、あなたの働きです。それは、憂いを取り除くものです。苦しみを取り除くものです。そして賛美の外套をつけさせるものなのです。みなさん、絶対にできます!あなたの働きを通して、絶対にできます。

「奉仕者」とは人々を牧し、導く者!

■次のポイントは「ダビデの模範」です。ダビデという人は、「ミュージシャン、羊飼い、ガイド、王」という者の優れた模範です。詩篇78:72を見ると「彼は、正しい心で彼らを牧し、英知の手で彼らを導いた。」とあります。ここで「牧し」という言葉と「導いた」という言葉に注目して下さい。もしみなさんが神様の御霊の働きを伝達するということに、本当に献身しているならば、つまり、単にミュージシャンなのではなく、本当に奉仕者としての心構えを持っているならば、あなたは「自分は牧者でもあり、ガイドでもある」という意識を必ず持たなければなりません。みんなが牧師にならなければならない、と言っているわけではありません。誰もが伝道者であるというわけでもありません。しかし、誰でもこの良い知らせを告げ知らせなければなりません。もしあなたが楽器を演奏する能力がある場合、あなたは楽器を用いて、他の人々を導き牧することができるのだ、という意識を持っていただきたいということです。あなたが自分の道具を主に委ねていくならば、それが力強い解放と癒しをもたらしていくのです。ですから、ダビデは「牧者」であり「ガイド」でした。ヘブル語で「ガイド」という意味の言葉は、「指導する、~へ連れていく」という意味があります。人々は外にいます。中で何が起きているのかわかりません。外と中では、気温も違います。匂いも違います。つまり、教会であなたが賛美をリードしている時、会衆の中に、つまらなそうにしている人がいたとしても、その人は神様を愛していないわけではありません。信仰が後退しているわけでもありません。ただ、あなたが何をしているか分からないだけなのです。ですから私たちはその人々の手をとって、中につれてこなければなりません。その人々が神様と出会う場へと連れて行かなければなりません。私たちは御霊の働きによってそれを成し遂げるわけです。どの文化にも言えることですが、人々が神様に近づきたくなる一番魅力的なことは何か?と言いますと、「困った時に助けていただく」という約束なのです。その約束を皆さんに伝達することさえできれば、人々はもっとあなたに耳を傾けるようになります。あなたの約束ではなく、神様の約束です。「あなたが私のもとに来るならば、私はあなたを休ませます。」「すべて重荷を負って疲れている人は私のところに来なさい。私があなたを休ませてあげます。」これは神様の約束ですよね?すべての人は安らぎを求めています。そしてその安らぎは神様の臨在を通してのみ来ます。このことは、次の「励ますのであって、失望させるのではない」という非常に重要な原則に関わってきます。

「私たち(音楽奉仕者)」の召しとは

■私たちは音楽によってだけではなく、言葉によって仕えるためにも召されています。そこで大切なのは、どんな言葉を使うか、ということです。私たちの目標は、みんなに手をたたいてもらうか、手を上げてもらう程度のものではありませんよね?目標は、人々が神と出会うことです。そして彼らが神様と出会ったら、そこには解放がもたらされます。そして悲しみの心が賛美の外套と取り換えられると、人々は感謝するようになります。感謝するならば、歌いたくなります!みなさんが講壇に立つ時、人々をしかりつけるためにここに立っているのではありません。人々を導くために立っているのです。イエス様は、祈る時は「天におられる将軍様」「天におられる軍曹」と言う風に祈りなさいと言いましたか?違いますね。神様は、「天のお父様」として私たちを導いて下さり、慰めて下さるお方です。私たちの働きは、脅迫ではなく、御霊の働きによって為すべきなのです。人を切り倒すものではなく、人を建て上げるもの、それが聖霊様の働きなのです。人を拒絶することではなく、受け入れる事です。人々を追い払うのではなく、人々を近づかせる働きです。神様は私たちに「近づきなさい」と言っています。しかし人々は近づきたくありません。人々が恐れを持っているからです。わたしたちはミニストリーのとらえ方を変えなければいけません。みなさんの働きはこれです。御霊の働きです。励ましの言葉を語って下さい。 二番目のポイントは、「癒しを促進する」です。言葉は癒しと解放をもたらします。講壇に立つ特権があるなら、主に向かって歌います。賛美します。主の御名をあがめます。自分の存在の最も深いところから、感謝をもって歌って下さい。自由だから歌って下さい。解放されたから歌って下さい。そして聖霊様のうながしがあったその時に、人々を励まし、癒す言葉を語って下さい。10秒もあればよいのです。一つの歌から次の歌へ移るたった10秒の間に、「聖書には、神様は永遠の愛をもって私たちを愛しているとあります。どうぞ神様の愛を受け入れて下さい。」と言うことができるでしょう。 ある人は「それだけでいいの?」と思うかもしれません。 れません。でもそれがあなたの真心から出てくるならば、人は耳を傾けます。そして考え方が変わり始めます。「もし神様が本当に私を愛してくれているなら、わたしも近づいてみようかな」と人々は思い始めます。ですからあなたの語る言葉には、癒す力があります。歌う時、開かれた礼拝の時、そういう瞬間を逃さないでください。「主の癒しを受けて下さい」とか「血潮の力によって癒しを受けて下さい」と語って下さい。20分のメッセージをする必要はありません。ここに数秒、ここに数秒あれば良いのです。そして人々の考えの中に大きなシフトをもたらすことができます。 そして最後は、「恵みを与える」ということです。人々に恵みを増し加えるということは可能なのです。ルカ4:22「みなイエスをほめ、その口から出て来る恵みのことばに驚いた」とありますが、この「恵み」という言葉は、「喜びを与えるもの、楽しみ、歓喜、甘美、話し方の恵み、友好、親愛、好意」などの意味があります。生まれたばかりの赤ちゃんが何年後かに恐るべき殺人犯になる、というのはどういうことなのでしょうか?もちろん人間の堕落した性質ということがあります。しかし、同じ堕落した性質をもった二人の人が、一人は犯罪者に、もう一人は医者とか社会に貢献する人になるということがあります。ですから問題は罪の性質だけではありません。複雑なことをあまりにも単純に言いすぎてしまうかもしれませんが、この恵みに満ちた赤ちゃんが、恵みのない恐るべき人間になる、ということは、生まれていたときに持っていた恵みを、周囲の人々が奪って行くのです。3,4,5才の頃に「おまえは馬鹿だね。大嫌いだよ。生まれない方が良かったのに。」と言って少しずつ、恵みが取られていき、恵みのない、社会の恥となるような人物になってしまうのです。あなたのミニストリーは、楽器を演奏する事ではありません。歌を歌うことではありません。あなたのミニストリーは、恵みのない人に恵みを与えていくことなのです。恵みを持っていなかった人に恵みの言葉を話す事があなたの働きなのです。もしそうするならば、あなたは、天のお父様が人々に受け取って欲しかったものを与えていくことができるのです。天のお父様の愛です。赦しです。贖いです。その人は救われ、あなたも幸せになります。あなたの教会がいのちで満ち溢れ、感謝にあふれた人々でいっぱいになります。あなたが彼らに恵みを与えてくれたことを喜ぶ人々でいっぱいになるでしょう。だからみんなが勝つわけです。そして悪魔が負けるのです。祈りましょう。天のお父様、みことばを通して教えて下さってありがとうございます。どうぞ私たちが単なるミュージシャンではなく、ミニスター、仕える人になることができますように助けて下さい。イエス様のお名前によって祈ります。ありがとうございました。■

※この講義はCD又は、DVDで購入することが出来ます。ご希望の方は右のお知らせをご覧になり、学院事務局までお申し込みください。

 

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