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ニュースレターNo.145

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「弱さの強み~神の力はどこ現わされるか?~」

熊本県大津市 大津キリスト教会牧師・学院顧問
米村 英二師

「しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」2コリント12章9節

「わたしの力は、弱さのうちに完全に現われる!」これが、今年の私たちへの神の言葉です。私たちには、日々、神の力が必要ではないでしょうか?どうしたらそれを豊かに経験することが出来るのでしょうか? その為にはもっと聖書を読むべきでしょうか? 祈るべきでしょうか?奉仕し、献金すべきでしょうか? さらにあれをし、又、これをすべきなのでしょうか? いいえ!神の力は、私たちが自分の弱さを認めるとき、その時、最も大きく現わされるのだとパウロは言うのです。それがパウロの生涯における体験でした。

この言葉によって、今年、神が私達に願っておられることは明瞭です。何よりもまず、自分の弱さを認めることです。自分に能力や知恵、知識がないことを恥じないで、むしろそういう弱さを持った人間として神の前に出ましょう。 そしてありのままの自分でいましょう。 そこから今年を始めようではありませんか。神が、こうおっしゃっているからです。「わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである」と。この言葉をパウロが聞いた時、彼は何と言ったでしょうか? 「私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。・・なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです」

ですから頑張るのはやめましょう。自分の弱さを認め、ただ自分のできる最善をする。それだけでよいのだと思います。「人間の弱いところにこそ、神の力が現わされる」。この逆説が神の国の法則です。よく霊的とか霊的でない、といった表現が使われますが、霊的とは何でしょう? 異言や預言を語り、超自然的な体験をすることでしょうか? イエスは言われませんでしたか?「その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』」(マタイ 7章22節・23節)

私も、信仰に入った頃、立派なクリスチャンになろうと努力しました。私は進んでこんな讃美歌を歌ったものです。「世の楽しみよ去れ。世のほまれよゆけ!」しかし、どんなに力強くそう歌っても、現実には、世の楽しみからも、世のほまれからも、完全には脱しきれない自分の姿を日々見せつけられてきました。この世の力は強く、自分の力でそれを断ち切ることなどできなかったのです。それならどうすればよいのでしょうか? ただイエスにすがるよりほかにありませんでした。私には、強いイエスの牽引力(私をご自分のほうに引っ張ってくださる力)が必要だったのです!そして昔の多くの聖徒たちは、イエスの、その牽引力の価値をよく知ってました。  『雅歌』に登場する女性は、「わが愛する者、美しいひとよ。さあ、立って、出ておいで」と呼ぶ、ひとりの高潔な男性の声を聞きます。ところが彼女は、その男性が誠実で、謙虚で、自分を大切に扱ってくれるすばらしい方であることを知りながら、自分のしたいことを優先し、その声に応答するのをずるずると先延ばしにするのです。するとその声はしだいに遠ざかり、聞こえなくなります。そのとき彼女は、自分の失ったものがどんなに大きかったかに気がつくのです。そこで彼女は言います。

「私を引き寄せてください。私たちはあなたのあとから急いでまいります」(雅歌 1章4節)

『雅歌書』の解説を待つまでもなく、その男性がイエス様であり、その女性が私たちであることはおわかりいただけると思います。私たちは、自分の力で信仰生活をすることはできません!イエス様のもとに行くこともできません!そのことを知っていたジョン・ウェスレーは聖歌の中で、こう歌っています。 「おののく我らに、聖き御霊を吹き入れ、安きに導きたまえ。御旨逆ろう想いを除き、変わらずただ主を慕わせたまえ。」(聖歌118番)

「吹き入れたまえ」「導きたまえ」「除きたまえ」「慕わせたまえ」 以上のような祈りなしに、クリスチャン生活の継続は不可能です。『雅歌書』の女性は、イエスのもとにゆくことの絶大な価値を知っていました。同時に、自分の力でそこにゆくことができないことも知っていたのです。ですから、「私を引き寄せてください」と祈ったのです。ご存じでしょうか? 皆さんが、今年最初のこの礼拝に来ておられるのは、イエス様が引き寄せてくださったからだということを。 私がクリスチャンになれたのも、そして今日まで信仰を持ち続けられたのも、みな主が私を引き寄せてくださったからなのです。では、主が引き寄せてくださる力を、われわれがもっとも強く感じるのはいつ、どんなときでしょうか? 自分の弱さを感じるときです。パウロはこう言っています。「神の力は、われわれの弱さのうちに完全に現われる」と。自分の力でやってみて、何度も失敗し、自分の無力さを知り、それを悲しむとき、神の力は現わされるというのです。

私が学んだイギリスの聖書学校にスピンドンという先生がいました。すばらしい説教者でした。同時にテナーの独唱家で、学校のクワイアの指揮者でもありました。奥さんはピアニストです。ある日の音楽の時間でした。楽譜を忘れた奥さんを、スピンドン先生が学生たちの前で厳しい口調で叱りつけました。奥さんは、プライドを傷つけられたと感じたのでしょう。ピアノをバンとたたいて教室を出て行ったのです。牧師や宣教師を養成するはずの聖書学校での光景です。その場にいた若い学生たちは失望しました。あんな人にはもうついてゆけないと、スピンドン先生を激しく批判する学生もいました。奥さんが教室を去ったあと、スピンドン先生は気まずそうにひとりの学生に言いました。「フランク、君は結婚しているから、理解してくれるだろうね」そんなスピンドン先生を私は非難できませんでした。むしろスピンドン先生の失敗は私にとって慰めでした。あんなに深く、心を探るような説教をする先生でさえ、自分を制することができないときがある。みんなの前で自分の弱さをみじめなほどに見せざるを得なかったスピンドン先生に、私は同情はしても彼を非難することはできなかったのです。実は私も、クリスチャンになって、もう少しりっぱな人間になる予定でした。しかし現実は今もなお、多くの欠点をもったままの人間なのです。子どもたちが小学生の頃、妻はよくPTAの役員などをして学校とのかかわりを積極的にもっていました。ときどき教会でその会合が行なわれます。すると仲間のお母さん方が私を見かけます。見かけたお母さん方は決まって妻にこう言いました。「やさしそうなご主人ね。」すると妻は、「と思うでしょう。ところがね」と答えたものです。私の説教だけを聞いている人は、私のことをみな、説教のとおりの人だと思うでしょう。しかしどんな牧師にも、説教するときだけでなく、実際に生活しているときがあるものです。いったいどれだけの説教者が両者の生活を矛盾なく生きているでしょうか。そう考えると、妻や子どもたちは、いつもえらいなと思います。私の毎日の生活を見ながら、なお説教を聞いてくれるからです。彼らが傷つかないのはなぜでしょうか。それは彼らが、人にではなく、神に希望をおいているからだと思います。長男は、高校生の頃、私によくこう言いました。「お父さんを見ていると、キリスト教の原罪(人はみな生まれらながらに罪人であるという教え)がよくわかる。お父さんがときどき爆発してくれると、実のところ、僕はほっとするんだ!」こういうことばを聞くと、私は子どもたちの寛容さに驚くのです。夫婦は、お互いの合意でいっしょに暮らしています。しかし子どもたちは違います。彼らは欠点多い私たちを親にもつよりほかなかったのです。私たち親は、子どもたちの失敗を忍耐してやっていると思っているかもしれません。が、それ以上に、子どもたちが私たちの欠点を担ってくれているという事実をお考えになったことがあるでしょうか。子どもたちは、私たちの行なった多くの悪をゆるしてくれているのです。繰り返すようですが、キリスト教が求めているのは、われわれがりっぱな人間になることではありません! では、何が求められているのでしょうか?

ある聖徒は二つのことを主に求め、こう祈りました。「主よ、私の罪の深さを現わしてください。それとともに、あなたの恵みがどれほど深いものであるかを示してください」と。私たちが体験すべきなのも、この聖徒が祈った二つのものだと思います。第一は、自分の罪がいかに深く、絶望的であるかということ。第二は、神の恵みがどんなに大きく、深いものであるかということです。以上の二つを学ぶことが、人生の大きな目的あると言ってよいかもしれません。その聖徒は、さらにこうもう言ています。 「もし神が、私たちの罪の深さを示してくださらなかったら、私たちは軽薄な人間のままでいたでしょう。しかし、神がご自分の恵みの深さを示してくださらなかったら、絶望的になっていたでしょう」と。ですから、大切なのは過ちを犯さないことではありません。むしろ、自分が過ちを犯す人間であるのを認めることです。そこから健全な人生は始まるのではないでしょうか。「善を行ないたいという願いはあるが、それをする力がない。ああ、私は何とみじめな人間なのだろう」というパウロの言葉はそのまま私たちの叫びです。そのような徹底的な無力さの中でじっとイエスを見つめます。欠けるものが多ければ多いだけ、それだけ私たちは自分の貧しさに徹して神のあわれみを求めるのです。そのとき変革が訪れます。ルターはこれを「信頼に満ちた絶望」「慰められている絶望」と呼びました。

ある家庭集会でのことです。旅行中のご夫婦が、たまたま参加してくださったことがありました。奥さんは熱心なクリスチャンでしたが、ご主人はそうではなかった。それを知って、ひとりの方が、「奥さんがクリスチャンだと、おやさしくてよろしいでしょう」と、ご主人のほうにたずねられた。すると、ご主人の返事が返ってくる前に、奥さんが激しく手を横に振って、こう言われたのです。「いいえ、ちっともやさしくなんかないんです。私の気性は激しいし、教会に行っても、私がちっとも変わらないので、主人は、いつまでたってもクリスチャンになってくれません。みんな私のせいなんです」その言葉に、一瞬、私たちはどう話を進めてよいのかわからなくなりました。まもなく隣にいた彼女のご主人が、静かな口調で話し始められました。「ここにおられる方は、皆さんクリスチャンのようだから、申しましょう。こんなことはだれにも、もちろん妻にも言ったことはないのですが、でもよい機会ですから。実は、妻が教会に行くようになって、妻は変わったなぁと私は、つくづくそう思って感謝しているのです。私への態度が、ほんとうにやさしくなりました」それを聞いた奥さんの目には涙が溢れていました。おそらく自分の信仰に対する夫の最初の評価の言葉だったのでしょう。夫はそんなふうに思っていてくれたのかと、それがうれしくて涙を流されたのに違いありません。奥さんの感激の涙を見て、そこにいた私たちも、一瞬、何とも言えない感動に包まれたものです。奥さんは、何とか自分を変えようと努力なさった。努力しても努力しても、相変わらずの自分が悲しかった。そのために幾たび神に祈られたことでしょう。ところが自分の弱さを悲しむ奥さんの心は、確実にご主人の心を動かしていたのです。このように私たちの立派さが人の心を動かすのではありません。むしろ私たちの弱さや愚かさを素直に認め、それを悲しむ心が、人の心を溶かしてゆくのではないでしょうか。■

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